市来 琴


コト、琴。天保(てんぽう)21831生まれ。夫は島津斉彬(なりあきら)の側近、市来(いちき)正之丞(しょうのじょう)(六左衛門、政清)。西郷が市来宛に出した書簡が10通近く残っている。

弘化(こうか)41847頃に嘉納次(政雄、政男)、嘉永21849頃に宗介、安政31856頃に勘六を産む。(子供に関しては諸説あり、5男説だと安政61113日(1859126日)に政方(まさかた)(宮内省、大正13年没)、万延(まんえん)元年(1860)頃に宗五郎を産む。)

薩長同盟(慶応2年(1866))の頃、「市来兄弟」(嘉納次と宗介)が京の西郷宅に居候。慶応4518687月)戊辰(ぼしん)戦争で嘉納次が越後にて戦死21。戊辰薩藩(さっぱん)戦死者墓(新潟県上越市)合祀(ごうし)されている。

明治5228187245日)宗介23歳)が、西郷の長男菊次郎11歳)に同行して米国留学に出発。明治61873の西郷の宗介宛書簡では、西郷が明治41871東京築地の海軍兵学寮(海軍学校)に入学させた勘六のことを「至極の勉強にて数十の生徒より抜出候由」と伝えている。

明治61873の市来正之丞が病死52歳頃)。明治101877312日西南戦争で宗五郎が熊本にて戦死17歳)924(西郷自決の日)宗介も城山で捕縛され斬首28。陣中で西郷は、医師ウィリスから貰った懐中時計を、宗介がアメリカから持ち帰った小さな金時計と交換した。城山陥落の際にその金時計を形見として預かった従卒の末吉兄弟が琴子の避難先、市来郷(いちきごう)養母村(やぼむら)田代(日置市東市来町養母(ようぼ)まで届けている。同年、勘六も米国海軍兵学校留学中に病死20

明治111878市来政方が、西南戦争で戦死して本山村(もとやまむら)(熊本市中央区本山町)に埋葬されていた「至親(ししん)(近親)西郷小兵衛」と、山鹿(やまが)湯町(ゆまち)(山鹿市)に葬られていた「弟市来宗五郎」の改葬願を出す。宗介と宗五郎の墓は南洲墓地1(鹿児島市上竜尾町(かみたつおちょう)の西郷隆盛の墓のすぐ後ろに、西郷小兵衛の墓をはさんで建っている。 

明治221889西郷の罪が(ゆる)されたとき、妹の大山安子とともに上京。上京後の生活は不詳。大正2191382歳頃)

市来宗介の墓
市来宗介の墓
市来宗五郎の墓
市来宗五郎の墓
右から市来宗介、西郷小兵衛、市来宗五郎の墓
右から市来宗介、西郷小兵衛、市来宗五郎の墓