ソノ、園。生年月日不詳。西郷の次弟吉二郎の後妻。旧姓仁礼(明治の記録に「仁禮平蔵妹」とある)。慶応3年(1867)2月、吉二郎と結婚(25歳頃)、上之園の西郷家に入る。吉二郎には、先妻マスの遺した3歳のみつ(美津)と2歳の勇袈裟がいた。
(同居している糸子は23歳、糸子の長男寅太郎が生後半年。)
慶応4年8月14日(1868年9月29日)、戊辰戦争に出征した吉二郎が新潟での戦いで負傷し、柏崎の病院で亡くなる(36歳)。吉二郎とはわずか1年半の結婚生活で実子もなかったが、そのまま西郷家に留まり、2人の子を育てる。
(吉二郎は金谷山墓地(新潟県上越市)に葬られた。吉二郎の墓「(薩藩)西郷吉二郎隆廣神霊」は大正6年に取り壊され、「(戊辰)薩藩戦死者墓」に合祀された。鹿児島の西郷家墓地に「西郷吉二郎隆廣之墓」と刻まれた墓があるが、死の1カ月後に届いた吉二郎の遺髪を納めた墓石を南林寺墓地(鹿児島市南林寺町)から移したもの。)
明治2年7月(1869年8月)西郷家と一緒に、西郷が購入した武村の屋敷に移る。
明治3年閏10月14日(1870年12月6日)西郷のはからいにより戸籍上、西郷吉二郎家として分家し、勇袈裟(6歳)が当主となって隆準と改名。
明治8年(1875)秋、西郷家・岩山家と日当山温泉※10に3週間逗留。
(みつ12歳、隆準11歳。西郷家は西郷47歳、糸子32歳、寅太郎9歳、午次郎5歳、酉三2歳。)
明治9年(1876)みつが、鹿児島に開校したばかりの鹿児島女子師範学校に入学。
明治10年(1877)2月29日、西南戦争で政府軍が鹿児島に上陸したため、西郷家の子供たちを連れて、永吉村(日置市吹上町永吉)の坊野へ避難する。
同年8月、西別府村の山中の西郷家野屋敷に移る(みつ14歳、隆準13歳)。西南戦争終戦後は再び武村に戻り、共に夫を亡くした糸子、松子と暮らす。
明治18年(1885)1月、隆準(20歳)が寅太郎(18歳)のドイツ留学に同行。(右はドイツへ行く前の、アメリカでの写真)
明治29年(1896)5月、糸子が東京に転居。
同年(1896)11月13日没(55歳頃)。墓は、大正11年(1922)8月に南林寺墓地から改葬された西郷家墓地(鹿児島市常盤)にある。墓銘「西郷園子之墓」。
隆準、明治34年(1901)6月24日没(40歳か41歳)。墓は青山霊園にある。
みつは足立家に嫁ぎ、7人(3男4女)の子供をもうける。夫の父足立梅渓は、菊次郎の足の治療をしたといわれる薩摩藩軍医で、薩摩藩の開成所(洋学講習所)、医師ウィリスが運営した鹿児島医学校の教官。足立みつ、昭和18年(1943)没(80歳)。
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