マス、まつ、松。安政4年(1857)前後の生まれ、父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉国。3人きょうだいの末子(兄藤之助、姉みね)。
明治6年(1873)11月、西郷の末弟小兵衛(25歳)と結婚し(15、16歳頃)、西郷家(武屋敷)に入る。本名はマスであったが、吉二郎の先妻(吉二郎も先妻もすでに故人)の旧名と同姓同名(有馬マス)であったためマツに変えた。
西郷は10月23日、明治政府に辞表を出して下野し、小兵衛が11月6日、西郷が11月10日に鹿児島に帰って来ていた。松子はのちに「(西郷隆盛は)いつも面白いことを言っては家の者どもを笑わせていた」と語っている。
明治9年(1876)5月、幸吉を産む。幸吉は生後まもなくかかった脳膜炎により、障がいがあった。
明治10年(1877)2月27日、西南戦争に出征した小兵衛が、熊本県高瀬(玉名市)で戦死(29歳)。松子は当時まだ10代であったと思われるが、銃弾に胸を撃ち抜かれた小兵衛を運ぶために薩摩兵が雨戸を貰い受けた民家(橋本家)宛に、丁寧な礼状を出している。
明治10年(1877)2月29日、武村を出て永吉村坊野に、同年8月西別府村に避難。
9月25日(西郷戦死の翌日)、従僕の吉左衛門が西郷の死を伝える。のちに松子が語った、「隆盛の最期を見届けませぬから、その模様は話しませぬ。川村さん、大山さんの伝言などありませぬ」という強い言葉は、政府軍の川村純義は西郷の母方のいとこハル(春子)の夫であり、大山巌は西郷の父方のいとこで、かつ松子の叔父(母の弟)であることを含んだものである。(ちなみに西郷が死んだ24日の大山巌の日記は「午前四時
各旅団より二中隊を選抜して進撃す。戦闘一時間余にして敵の首領ら悉く斃れ、七時過ぎ戦闘全く終わる。午後、大いに雨降る」のみで、翌日は旅宿で相撲を見ている。)
明治11年(1878)3月6日、市来政方が、本山村(熊本市)香福寺に埋葬されていた「至親(近親)西郷小兵衛」の改葬願を出す。西郷小兵衛の墓は現在、南洲墓地の西郷隆盛の墓のすぐ背にある。
明治12年(1879)頃、西郷従道の資金により武屋敷が再建される。家の再建の援助を糸子に断られた従道が、「幸吉に家を造ってやる」と松子に申し入れ、3歳の幸吉名義で建てた。糸子がその話を断ったことを松子は知っていたが、「姉さんたち(園子と糸子)と一緒に暮らすために、大威張りで世話になる」と言って泣いたと伝わる。
明治13年(1880)3月12日、菊草が誠之助(松子の叔父)と結婚し、大山家に移る。
明治15年(1882)8月23日、両親(有馬糺右衛門・国子)が東京に居を移す。
明治22年(1889)西郷の賊名がとかれたのち、息子の幸吉を伴って東京を訪れる。
明治29年(1896)5月、糸子(53歳)が、東京の長男寅太郎邸へ移る。
同年11月13日、園子(吉二郎の後妻)が亡くなり、武屋敷は松子と幸吉のみとなる。
大正2年(1913)9月26日、徳冨蘆花夫妻(徳冨蘆花は、大山巌の先妻の娘信子(松子のいとこ)をモデルにした小説『不如帰』を明治33年(1900)に出版)が武屋敷を訪ねている。
(「松子刀自と、自然に不幸なその息と、書生の肥後君、ほか僕婢の淋しい生活である」 「妻とし母として松子刀自には全くの日蔭の生涯が与えられた」 「物静かに話に聞き入るほどに、余も妻も言い難い哀愁に落ちるを支えかねるのであった」 蘆花全集第11巻「南洲居」より)
大正5年(1916)12月10日に74歳で没した叔父大山巌の国葬のために上京。
(官報による大山巌の肩書は「議政官内大臣元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵」)
大正7年(1918)11月6日、子の幸吉が亡くなる(42歳)。
大正8年(1919)52歳で没した寅太郎の西郷侯爵家は、翌年次男隆輝も急逝(長男隆幸は夭折)し三男吉之助(15歳)が襲爵、ほかの寅太郎の遺児たち(三女勝子、四男隆永、五男隆国、六男隆明、七男隆正、四女光子、八男隆徳)は、母の信子が西郷家から出され、借財の整理のため東京の屋敷も売却されたため、大正10年(1921)鹿児島に移って武屋敷で松子と一緒に暮らし、鹿児島二中(甲南高校)ほかに通った。
菊次郎は大正9年(1920)退職後、武屋敷に近い薬師町に住み、松子や寅太郎の子供たち、みつ(吉二郎の娘)、岩山家(糸子の実家)などと親しく付き合った。(右は大正15年(1926)夏に撮影され
た、菊次郎一家(菊次郎・久子夫妻には14人の子(うち2人夭折)があった)、寅太郎の遺児たちとの写真)
菊次郎、昭和3年(1928)11月27日没(67歳)。
昭和10年(1935)2月に熊本県玉名市に「西郷小兵衛戦没の地」の碑が建立されたことに対し、橋本鶴松宛に3月14日、感謝の書状を書く。「老体かつ多年のリウマチで全く歩けず、申し訳なきことながら拙筆をもって幾重にも厚く御礼申し上げます」。追って12月28日には、碑の管理に対し小為替券で花料を送付している。
(現在、玉名市立歴史博物館が橋本家宛の西郷松子書簡6通を所蔵。)
昭和18年(1943)3月6日没(84歳か85歳)。西郷家墓地(鹿児島市常盤)の、西郷菊次郎家の「西郷家之墓」と向かい合わせる「西郷家之墓」に、息子の幸吉とともに眠る。ともに昭和35年(1960)に建立された寄せ墓で、「西郷マス子」と刻まれている。
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