菊草(大山菊子)


奄美大島の龍郷村(たじごむら)龍郷(たつごう)町)小浜(こはま)の借家に潜居(せんきょ)していた西郷隆盛(変名・菊池(きくち)源吾(げんご)は安政61181859121日)、トマ愛、(りゅう)子、通称愛加那(あいかな)島妻(とうさい)とし(西郷31歳、愛加那23歳)万延(まんえん)2121861211日)兄の菊次郎が生まれる。

1年後、召還(しょうかん)命令を受け西郷は白間(しろま)(龍郷)に新築した家と田一(たん)を愛加那に与え、文久(ぶんきゅう)21141862212日)帰還。半年後の721862728日)菊草(きくそう)が生まれる。

再び流された西郷が文久2751862731日)徳之島到着。西郷は819912日)、大島代官所木場(こば)伝内(でんない)からの手紙717日付)で、菊草の誕生を知る。826919日)、愛加那が子供を連れて徳之島へ渡り、岡前村(うわずんむら)(天城町岡前(おかぜん)1週間ほど西郷と過ごす。しかし西郷は文久2(うるう)8141862107日)沖永良部島(おきのえらぶじま)へ流される。

流罪(るざい)1年半ののち元治(げんじ)元年218643月)、帰還する際に西郷36歳)は龍郷に寄り、妻子と34日を過ごした。愛加那28歳頃)にとってこれが西郷との永劫(えいごう)の別れとなったこのとき菊草18カ月。次に父親と会うのは10年後のことである。

翌年の元治(げんじ)2118652月)岩山イト(糸子)と結婚(西郷37歳イト21歳)。式の8日後に鹿児島を()った西郷が京都から、菊次郎と菊草に反物(たんもの)を送っている。

明治維新を成し遂げた西郷は、明治2218694月)参政(さんせい)(旧藩の家老(かろう)に就任。「この春そちら(奄美大島)へ行くはずであったのに、いかんとも致し方なくなった」(島役人への書簡)。同年718698月)武村(たけむら)(鹿児島市)の屋敷を購入し、菊次郎を鹿児島へ呼び寄せた(西郷41歳、菊次郎8歳)。菊次郎は西郷家に1年余りいて、明治4118712月)西郷と東京へ移り10歳)、翌年218724月)米国に留学11歳)

※西郷は明治618731(明治6年から太陽暦)、菊次郎の写真を同封した書状を愛加那に送り、年をとったせいか子供(菊草)のことをしきりに思い出すので母娘でぜひ本土に登ってくるように、と頼んでいる。5月には、仕事で奄美を回る叔父が菊草を鹿児島に連れて来る予定であると菊次郎に伝えているが、西郷が6月から病気治療に入ったためか、このときは話が流れた。

菊次郎は明治718747月頃に帰国し13歳)、明治818754月、西郷が吉野村寺山(てらやま)(鹿児島市)につくった全寮制の農業学校、吉野開墾(かいこん)社に入った14歳)。菊草が西郷家に引き取られたのはその前後12歳頃)である。

※のちに「南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)」を刊行する旧庄内(しょうない)(すげ)実秀(さねひで)に随行して明治818755月中旬から1カ月間鹿児島に滞在した石川静正(しずまさ)の紀行文。西郷先生が一泊がてら畑に御案内くださることになっていて一同楽しみにしていたが、「女の御児、菊次郎氏の妹が不快(病気)(かか)られ、(つい)に果たさず()みぬ、誠に残念なり」のち松嶺町(まつみねまち)(山形県酒田市松山)町長の小華和(こばなわ)業修(ぎょうしゅう)の日記。「六月七日、西郷先生を(とぶら)ふ、幸い()ふ。此頃(このごろ)子供不快にて、度々(たびたび)おいでなれども逢はず失敬なりと申さる」

明治91876、西郷のいとこ大山誠之助(せいのすけ)(いわお)の弟)と婚約14歳)

※誠之助は明治2年に上京し、近衛隊、教導団(陸軍下士官養成機関)を経て陸軍少尉となっていたが、西郷が下野(げや)した明治6年に辞官し帰郷していた。

明治101877217日、西南戦争が勃発(ぼっぱつ)229日、西郷家と永吉村日置(ひおき)吹上(ふきあげ)町)坊野(ぼうの)へ避難し、8月、西別府(にしのびゅう)(鹿児島市西別府(にしべっぷ)町)拘地(かけじ)(自作地)へ移る。

※菊次郎16歳)銃創(じゅうそう)(鉄砲傷)を負い右足の(ひざ)から下を切断、長井村(宮崎県延岡(のべおか)市北川町)俵野(ひょうの)西郷の指示により降伏(こうふく)、宮崎で放免(ほうめん)され(永田)熊吉(くまきち)に背負われて9月初旬、西別府村に辿(たど)り着いた。西郷家が住む()屋敷(農事小屋)近くの納屋(なや)で、菊草が菊次郎を看病したと伝わる。

明治101877924日、西郷隆盛が岩崎谷で自刃(じじん)49歳)。翌日、西別府に西郷の死の知らせが届く。このとき菊草15歳。一家は終戦後しばらくして武村へ戻った。

明治131880212日、大山誠之助30歳)と結婚17歳)。誠之助は長井村で投降後、宮城県監獄署(かんごくしょ)(仙台)に収監され明治121879釈放(しゃくほう)されていた。

結婚後、加治屋町の大山家で暮らす。(明治221889まで大山安子一家が同居。)

※菊次郎は菊草の結婚後奄美大島に帰っていたが、明治14年に上京し20歳)明治17年外務省入省、翌年米国留学。明治23年右下腿(かたい)切断の後遺症のため帰国。その後退職して鹿児島へ移る。

菊草(大山菊子)は米子、慶吉、綱則、冬子の4人を産むが、夫の借金やDVにより長く苦労した。明治2618931月、大山(いわお)が鹿児島の菊次郎へ出した書簡、「実弟(じってい)誠之助がまた例の不始末をおこして面倒をかけ実に面目ない。有馬様(姉国子の夫)、お安様(大山安子)に明朝集まってもらい相談する。西郷家は沼津従道(じゅうどう)の別荘)に行っているので帰京次第(しだい)相談する」。このあと鹿児島の大山家は処分され、誠之助が出奔(しゅっぽん)たため長男慶吉は大山巌・(山川)捨松(すてまつ)夫妻に引き取られた。(学習院から明治40年(1907)陸軍士官学校を卒業して陸軍に入り、陸軍少佐になった。昭和17227日没)

菊草と3人の子も大山や従道の援助を受けて暮らしたと思われるが、詳細は未詳。

明治35旧暦8271902928日)、母・愛加那没65歳)。菊次郎は葬式に駆けつけたが、菊草は12歳で奄美を離れて以来、生涯一度も帰らぬままであった。

台湾宜蘭(ぎらん)庁長(知事)を辞したあと明治37190410月から第2代京都市長を務めていた菊次郎のもとに、明治401907頃、身を寄せた。菊次郎は聖護院(しょうごいん)一郭(いっかく)北殿(きたどの)に住んでいた(佐野静代氏による)。なお聖護院で撮影された菊次郎家の記念写真(龍郷町教育委員会所蔵)に写っている女性が菊草とされるが、確証はない。

京都に移ってわずか2年後の明治42190996日、47歳)。京都大日山(だいにちやま)墓地)に葬られたが、のち東京都杉並区大円寺(だいえんじ)の大山誠之助の墓の隣に移された。

※誠之助は菊草の死後に大山巌邸に現れ、敷地内に家を建ててもらっていた慶吉宅へ転がり込み、大正41915716日没65歳)。菊次郎は昭和319281127日没67歳)