奄美大島の龍郷村(龍郷町)小浜の借家に潜居していた西郷隆盛(変名・菊池源吾)は安政6年11月8日(1859年12月1日)、トマ(愛、龍愛子、通称愛加那)を島妻とし(西郷31歳、愛加那23歳)、万延2年1月2日(1861年2月11日)兄の菊次郎が生まれる。
1年後、召還命令を受けた西郷は、白間(龍郷)に新築した家と田一反を愛加那に与え、文久2年1月14日(1862年2月12日)帰還。半年後の7月2日(1862年7月28日)、菊草が生まれる。
再び流された西郷が文久2年7月5日(1862年7月31日)徳之島到着。西郷は8月19日(9月12日)、大島代官所木場伝内からの手紙(7月17日付)で、菊草の誕生を知る。8月26日(9月19日)、愛加那が子供を連れて徳之島へ渡り、岡前村(天城町岡前)で1週間ほど西郷と過ごす。しかし西郷は文久2年閏8月14日(1862年10月7日)沖永良部島へ流される。
流罪1年半ののち元治元年2月(1864年3月)、帰還する際に西郷(36歳)は龍郷に寄り、妻子と3泊4日を過ごした。愛加那(28歳頃)にとってこれが西郷との永劫の別れとなった。このとき菊草1歳8カ月。次に父親と会うのは10年後のことである。
翌年の元治2年1月(1865年2月)岩山イト(糸子)と結婚(西郷37歳イト21歳)。式の8日後に鹿児島を発った西郷が京都から、菊次郎と菊草に反物を送っている。
明治維新を成し遂げた西郷は、明治2年2月(1869年4月)参政(旧藩の家老)に就任。「この春そちら(奄美大島)へ行くはずであったのに、いかんとも致し方なくなった」(島役人への書簡)。同年7月(1869年8月)武村(鹿児島市)の屋敷を購入し、菊次郎を鹿児島へ呼び寄せた(西郷41歳、菊次郎8歳)。菊次郎は西郷家に1年余りいて、明治4年1月(1871年2月)西郷と東京へ移り(10歳)、翌年2月(1872年4月)米国に留学(11歳)。
※西郷は明治6年(1873)1月(明治6年から太陽暦)、菊次郎の写真を同封した書状を愛加那に送り、年をとったせいか子供(菊草)のことをしきりに思い出すので母娘でぜひ本土に登ってくるように、と頼んでいる。5月には、仕事で奄美を回る叔父が菊草を鹿児島に連れて来る予定であると菊次郎に伝えているが、西郷が6月から病気治療に入ったためか、このときは話が流れた。
菊次郎は明治7年(1874)7月頃に帰国し(13歳)、明治8年(1875)4月、西郷が吉野村寺山(鹿児島市)につくった全寮制の農業学校、吉野開墾社に入った(14歳)。菊草が西郷家に引き取られたのはその前後(12歳頃)である。
※のちに「南洲翁遺訓」を刊行する旧庄内藩菅実秀に随行して明治8年(1875)5月中旬から1カ月間鹿児島に滞在した石川静正の紀行文。西郷先生が一泊がてら畑に御案内くださることになっていて一同楽しみにしていたが、「女の御児、菊次郎氏の妹が不快(病気)に罹られ、遂に果たさず止みぬ、誠に残念なり」。のち松嶺町(山形県酒田市松山)町長の小華和業修の日記。「六月七日、西郷先生を訪ふ、幸い逢ふ。此頃子供不快にて、度々おいでなれども逢はず失敬なり、と申さる」
明治9年(1876)、西郷のいとこ大山誠之助(巌の弟)と婚約(14歳)。
※誠之助は明治2年に上京し、近衛隊、教導団(陸軍下士官養成機関)を経て陸軍少尉となっていたが、西郷が下野した明治6年に辞官し帰郷していた。
明治10年(1877)2月17日、西南戦争が勃発。2月29日、西郷家と永吉村(日置市吹上町)坊野へ避難し、8月、西別府村(鹿児島市西別府町)の拘地(自作地)へ移る。
※菊次郎(16歳)は銃創(鉄砲傷)を負い右足の膝から下を切断、長井村(宮崎県延岡市北川町)俵野で西郷の指示により降伏、宮崎で放免され(永田)熊吉に背負われて9月初旬、西別府村に辿り着いた。西郷家が住む野屋敷(農事小屋)近くの納屋で、菊草が菊次郎を看病したと伝わる。
明治10年(1877)9月24日、西郷隆盛が岩崎谷で自刃(49歳)。翌日、西別府に西郷の死の知らせが届く。このとき菊草15歳。一家は終戦後しばらくして武村へ戻った。
明治13年(1880)2月12日、大山誠之助(30歳)と結婚(17歳)。誠之助は長井村で投降後、宮城県監獄署(仙台)に収監され明治12年(1879)釈放されていた。
結婚後、加治屋町の大山家で暮らす。(明治22年(1889)まで大山安子一家が同居。)
※菊次郎は菊草の結婚後奄美大島に帰っていたが、明治14年に上京し(20歳)明治17年外務省入省、翌年米国留学。明治23年右下腿切断の後遺症のため帰国。その後退職して鹿児島へ移る。
菊草(大山菊子)は米子、慶吉、綱則、冬子の4人を産むが、夫の借金やDVにより長く苦労した。明治26年(1893)1月、大山巌が鹿児島の菊次郎へ出した書簡、「実弟誠之助がまた例の不始末をおこして面倒をかけ実に面目ない。有馬様(姉国子の夫)、お安様(大山安子)に明朝集まってもらい相談する。西郷家は沼津(従道の別荘)に行っているので帰京次第相談する」。このあと鹿児島の大山家は処分され、誠之助が出奔したため長男慶吉は大山巌・(山川)捨松夫妻に引き取られた。(学習院から明治40年(1907)陸軍士官学校を卒業して陸軍に入り、陸軍少佐になった。昭和17年2月27日没)。
菊草と3人の子も大山や従道の援助を受けて暮らしたと思われるが、詳細は未詳。
明治35年旧暦8月27日(1902年9月28日)、母・愛加那没(65歳)。菊次郎は葬式に駆けつけたが、菊草は12歳で奄美を離れて以来、生涯一度も帰らぬままであった。
台湾宜蘭庁長(知事)を辞したあと明治37年(1904)10月から第2代京都市長を務めていた菊次郎のもとに、明治40年(1907)頃、身を寄せた。菊次郎は聖護院の一郭(北殿)に住んでいた(佐野静代氏による)。なお聖護院で撮影された菊次郎家の記念写真(龍郷町教育委員会所蔵)に写っている女性が菊草とされるが、確証はない。
京都に移ってわずか2年後の明治42年(1909)9月6日、没(47歳)。京都(大日山墓地)に葬られたが、のち東京都杉並区大円寺の大山誠之助の墓の隣に移された。
※誠之助は菊草の死後に大山巌邸に現れ、敷地内に家を建ててもらっていた慶吉宅へ転がり込み、大正4年(1915)7月16日没(65歳)。菊次郎は昭和3年(1928)11月27日没(67歳)。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から