大山安子


ヤス、安。天保101839生まれ。安政31856頃、大山綱昌(つなまさ)(父吉兵衛の弟)の長男大山成美(せいみ)(彦八)と結婚(大山家は西郷家から4軒隔てた近所)

大山成美は、坂本龍馬が寺田屋で伏見奉行の捕吏に襲われたとき、伏見の薩摩藩邸から川船を出して救出した人物。維新後、京都府や埼玉県の大参事(副知事)などを務めたが、明治61873の西郷の下野(げや)に従って官を辞し鹿児島に帰郷していた明治91876228日、41歳で病死した。

成美の次弟大山(いわお)33歳)は結婚式を控えていたためか葬儀に出ず、葬儀いっさいの面倒を西郷がみた。巌は同年311日、吉井友実(ともざね)の娘(さわ)(沢子、佐和、15歳)と結婚(大山家と吉井家も1軒を隔てた隣近所)328日、西郷が大山巌に書簡を出し、兄の葬儀の模様を知らせたうえで、誠之助(成美の末弟)が遺族と同居するから心配いらない、と伝えている。

明治10187757日、西南戦争に出征した長男辰之助が、甲突川(こうつきがわ)(鹿児島市)で戦死16528日付の大山巌の手紙によれば、大山が直後、次男武次郎を東京に呼び寄せた模様。西南戦争中の安子の避難先は不詳。

明治131880212日、西郷の娘菊草(きくそう)17歳)が誠之助30歳)と結婚し、しばらく大山家に同居した(誠之助一家はのち東京に居を移すが転居時期は不詳)

明治221889娘の雪子14歳)、姉の琴58歳頃)上京50歳頃)。亡夫の妹有馬国子3とともに、大山巌の援助を受けて暮らしたと思われる。

明治391906娘の雪子が病死31歳、夫の伊地知(いじち)幸介(こうすけ)452歳) 

大正21913の「西郷南洲翁(なんしゅうおう)肖像発行趣意書」は、安子のことを「南洲翁令妹(れいまい)大山武次郎君母堂」と記している。墓は東京都杉並区永福町の大円寺にある。

大山辰之助の墓(南洲墓地)
大山辰之助の墓(南洲墓地)