龍愛。幼名トマ(於戸間金)、戸籍名アリカナ、墓銘龍愛子、通称愛加那。
西郷隆盛の奄美大島での島妻。父は龍郷の名家である龍家(もと田畑家)の一族、龍佐恵志(トマ6歳のころ死亡)、母は枝加那。(異母兄弟含め)5人きょうだいの4番目(次女)。
安政6年11月8日(1859年12月1日)西郷(31歳)と結婚(23歳)。「愛」は結婚したときに西郷が与えた名。西郷はその前年の安政5年11月16日(1858年12月20日)に月照とともに錦江湾(鹿児島湾)で入水、一命をとりとめ、藩命により菊池源吾※6と変名し奄美大島に送られていた。罪人としての遠島ではなく、幕府の目から逃れるための潜居。よって島の代官所から禄をもらって龍郷小浜の借家(龍家本家)で暮らし、次弟の吉二郎はじめ鹿児島からもたびたび品物が届いていた。安政7年(1860)には藩主忠義から「菊池源吾留守家族」に25両の下賜金も出ている。
万延2年1月2日(1861年2月11日)菊次郎を産む。
文久元年11月20日(1861年12月21日)、鹿児島召喚の噂を聞いた西郷が妻子のために龍郷白間に建てた屋敷(8畳と6畳の二間つづきの茅葺きの家)が落成。
※観光地「西郷南洲謫居(流謫)跡」は愛の養子(兄の子)龍丑熊が明治末期に再建した家。
※薩摩藩には島妻制度があり、島妻を連れ帰ることは許されていなかった。西郷にかぎらず薩摩藩士は、それを当然のことと思っていた節がある。
引っ越した直後に藩からの召喚命令が届き、文久2年1月14日(1862年2月12日)西郷が龍郷を離れる。別れに際し西郷は愛加那に、その新築の家と、新たに買った田一反、形見としての毛髪を与えた(のちにこの毛髪の鑑定により西郷の血液型はB型と分かっている)。結婚生活は約2年であった。そのとき愛加那は2人目の子を身ごもっており、半年後の7月2日(7月28日)西郷のひとり娘菊草を産む。
西郷は、帰還からわずか2カ月後、島津久光の怒りを買って大坂で捕縛され鹿児島に護送される。徳之島への遠島の藩命が下り、山川(指宿市)を出帆、屋久島を経て奄美大島西古見(瀬戸内町)で数泊。龍郷の島役人藤長宛に書簡を出し、「私が徳之島に参ったと知れば(愛が)渡りたいと言い出すだろうが、決して参らぬようお申し付けください」。西郷は、奄美大島に島替えになる可能性を信じていたのである。
文久2年7月5日(1862年7月31日)西郷が徳之島の湾仁屋湊(天城町浅間湾屋)に到着。愛加那は徳之島へ移ることを決め、大島警護方として奄美大島に赴任していた桂久武※7のもとへ8月1日(8月25日)愛の兄富謙が菊次郎を連れて徳之島へ渡る暇乞いの挨拶に行っている。
西郷は、8月19日(9月12日)に届いた大島代官所木場伝内からの手紙で菊草の誕生を知るが、翌日返事を出し、「召し使いおき候女(愛)が決して渡海いたさざるようお頼み申し上げ候」と改めて書いている。
しかし沖永良部島へ移されるという話を聞いた西郷が妻子を徳之島に呼び寄せたため、8月26日(9月19日)兄の富堅と龍郷の島役人宮登喜に伴われて、菊次郎と菊草を連れ岡前村(天城町岡前)の西郷のもとへ渡り、1週間ほど家族で過ごす。そこに、鹿児島で7月14日(8月9日)に出された西郷の沖永良部島への遠島命令が届き、西郷が井之川村(徳之島町井之川)に移されため、奄美大島に帰る。
岡前で西郷を親身になって世話した島役人の琉仲為(『仲為日記』の筆者)が愛加那親子の帰島の面倒を見、仲為夫人は土産まで持たせている。仲為はその後、養子の仲祐※8を、西郷の世話をさせるために沖永良部島まで行かせている。
龍郷に戻ったあとも愛加那親子を、得藤長、木場伝内、桂久武らがよく面倒を見ており、西郷がそれぞれに多くの礼状を書いている。文久2年12月11日(1863年1月30日)、巡回で龍郷に来た桂久武の宿へ、愛加那親子が挨拶に行っている。
文久3年3月21日(1863年5月8日)に西郷が、沖永良部島から龍郷の藤長へ出した書簡では、もし罪が赦されたら早速隠居して龍郷で暮らすつもりだ、罪の重い遠島のせいなのか年をとったせいなのか、気が弱くなり、子供のことが思い出されてつらい、強気の生まれつきなのにおかしなものだ、と書いている。
流罪1年半ののち、再び藩命によって召喚された西郷が元治元年2月23日(1864年3月30日)、沖永良部島から帰還する際に奄美大島に寄り、妻子と3泊4日を過ごして2月26日(4月2日)龍郷を出帆。これが愛加那の、西郷との永劫の別れとなった(西郷36歳、愛28歳頃)。
元治2年1月28日(1865年2月23日)西郷が岩山イト(21歳)と結婚。西郷は結婚直後に出張した京都から3月21日(4月16日)、藤長に書簡を送り、親子が厄介になっている礼を述べたうえで、子供のことが始終心に懸かり京都にいても折々思い出している、反物2反を送るので「豚子」(菊次郎と菊草のこと)にお渡しくださいと頼んでいる。
明治2年3月20日(1869年5月1日)の藤長宛の書簡で西郷は、「奄美大島に行くことができなくなった」ことを詫びる。戊辰戦争で勝利して鹿児島に凱旋したあと、隠居するつもりであったが、藩主島津忠義に藩の参与への就任を請われたため、「一両年は相勤め候わでは相済むまじく」なり参政(旧藩の家老)に就任したのである。同書簡で、「遺子ども」(菊次郎と菊草)が世話になっていることに厚く礼を言っている。
西郷は明治2年7月8日(1869年8月14日)に武村(鹿児島市)の屋敷を購入し、菊次郎(8歳)を鹿児島に呼び寄せた(西郷41歳、愛33歳頃)。
武屋敷には、糸子(26歳)、寅太郎(3歳)、前年戦死した吉二郎(西郷の次弟)の妻園子と先妻マスの2人の子、従道(西郷の三弟)の妻清子(従道は東京)、川口雪篷と数人の使用人が暮らしていた(末弟の小兵衛は京都)。
明治4年1月3日(1871年2月21日)、政府に入ることとなった西郷に連れられて、菊次郎(10歳)が東京に移る。
明治5年2月28日(1872年4月5日)、菊次郎(11歳)が農業修業としてアメリカ留学に出発。明治6年(1873)1月18日(明治6年から太陽暦)、西郷から愛加那に書状がくる。菊次郎がアメリカに学問修行に行っていること、甥(西郷の長妹・琴の次男)の市来宗介(23歳)が同行していることを伝え、菊次郎の写真同封のうえ、年をとったせいか子供(菊草)のことを思い出すので、ぜひ母娘で本土に登ってくるようにと頼む内容。
明治6年(1873)5月西郷が、仕事で奄美を回る叔父(西郷の母マサの弟)椎原国幹に、奄美から菊草を連れてくるよう依頼するが、西郷が6月から数カ月の病気治療に入ったためか、このときは話が流れている。
菊次郎が2年間の留学から帰国した明治7年(1874)頃、菊草(12歳)が鹿児島の西郷家に引き取られる。愛加那はこのあと菊草とは、生涯一度も会えぬままであった。
明治10年(1877)9月24日、西南戦争で西郷死す(49歳)。出征した菊次郎(16歳)は右足の膝下を切断。
明治13年(1880)3月12日、菊草(17歳)が西郷のいとこ大山誠之助(大山巌の弟)と結婚(大山菊子)。菊草の結婚後、菊次郎が奄美大島に帰ってきて(年月日不詳)、愛加那と数年暮らす。
明治17年(1884)、菊次郎(23歳)が外務省入省のため横浜へ移る。
※西郷の七回忌が過ぎたころ、遺児である寅太郎の留学と菊次郎の就職の動きが同時に起こる。明治天皇が「西郷の遺族はどうしているか」と尋ねたことが発端とする説、勝海舟が動いたとする説、吉井友実ら西郷に近かった薩摩出身者たちが罪滅ぼしに動いたとする説など、諸説ある。
明治28年(1895)、日清戦争終戦後に台湾総督府勤務となった菊次郎が、台湾に赴任する際に奄美大島に寄っている。
明治31年(1898)、大島島司(大島支庁長)の笹森儀助※9らにより、屋敷の庭に「西郷南洲流謫地」の記念碑(碑文・勝海舟)が建立され、愛加那も記念式典に列席。
明治35年旧暦8月27日(1902年9月28日)没、65歳。雨の降るなか一人で畑に行き、農作業の途中で倒れてそのまま息を引き取ったという。菊次郎は母の死を知らせる電報を台湾で受け取って葬式に駆けつけたが、菊草は12歳で奄美を離れて以来、生涯一度も島には帰らず、母親とも一度も会わぬままであった。菊次郎が京都市長になる2年前である。
愛加那は生涯、奄美を出ることなく、西郷にもらった家で暮らした。兄富謙の次男丑熊を養子にしているが、その事情は不明。菊次郎の子隆治(昭和52年7月6日没)が昭和5年に龍郷の田畑家墓地に建立した愛の墓の銘は「龍愛子」となっている。
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