スガ。生没年不明。伊集院兼善の娘。
嘉永5年(1852)西郷隆盛(吉之介24歳)と結婚(21歳頃)。伊集院家のあった上之園は西郷家の下加治屋町(鹿児島市加治屋町)から、甲突川を挟み歩いて10分ほど。西郷は当時、郡方書役助※5という地方役人であった。
結婚後すぐ、西郷の祖父龍右衛門が嘉永5年7月18日(1852年9月1日)、父吉兵衛が同年9月27日(11月8日)、母マサ(政佐、政子)が同年11月29日(1853年1月8日)と立て続けに亡くなる。嘉永7年1月21日(1854年2月18日)、西郷(善兵衛に改名)が藩主島津斉彬に抜擢され、参勤交代の江戸への御供、江戸詰を命じられて鹿児島を出発。3月6日(1854年4月3日)江戸に着き、4月斉彬の庭方役となる。
安政元年(嘉永7年11月27日に改元)の年末(1855年1月頃)、実家に帰ってしまう。西郷が留守のなか、少ない扶持米(給与)で西郷の弟妹(すでに嫁いでいた長妹琴を除く5人、6歳~20歳)の面倒をみる苦しい生活を見かねて父親が呼び戻したといわれている。
その後、伊集院家が江戸の西郷に相談し離縁が決まる。西郷はそのとき「こちらこそ申し訳なかった」と言ったと伝わる。結婚生活はわずか2年ほどであった。
西郷(28歳)は江戸在任中の安政2年12月12日(1856年1月19日)、借金返済のため生家(259坪半)を売却。祖母と弟妹(鷹も嫁ぎ4人)は、甲突川の対岸上之園の借家に移る。西郷(吉兵衛)が3年ぶりに帰郷したのは安政4年5月24日(1857年6月15日)。
須賀に関して、離婚後のことはおろか生没年すら不明とされているのは、伊集院家が伏せたためである。のちに西郷が篠原国幹宛の書簡(明治7年(1874)8月31日付)で、須賀の弟(西郷の10歳下)伊集院兼寛のことを「誠に鉄面皮の先生」「ダッキョウ(ラッキョウの鹿児島弁)先生にて驚き入る」と非難していることと関係すると思われる。
父親の伊集院兼善はのちに高知県令(知事)となり、伊集院兼寛は西南戦争のあと元老院議官、のち子爵、貴族院議員となっている。
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