※余談ながら、西郷隆盛にまつわる有名ないくつかのエピソードの真偽です。
「上野の西郷像の顔は似ていない」はウソ
明治31年12月18日、西郷隆盛像除幕式で糸子夫人が「やどんしはこげなお人じゃなかったこてえ」(主人はこんな人ではなかったのに)と言ったという話が、顔が似ていない証しとしてよく使われる。しかしそのあと「浴衣で散歩はしもさんど」と続けた。つまり「こんな人ではない」は、顔の話ではなく服装のことだったのである、という話もまたよく登場する。
しかしどちらも参列者の証言や記録などの史料はない。大正11年に亡くなるまで西南戦争(明治10年)については家族にも一言も語らなかったという糸子が、公の場でそういう台詞を口にするとは考えづらい。また、散歩ではなく猟の姿であること、顔の参考にしたキヨッソーネの西郷肖像画はこの15年も前に描かれていたことなどを考えれば、作り話としてもお粗末である。
この話が広まったのは、政治家・軍人として顕彰する像と信じていた旧薩軍側の人々にとって、着流し姿が不本意だったということもあろう。高村光雲により陸軍大将の正装の原型が作られ雛形まで完成していたが、「ある重臣から故障が出て変更された」(光雲の三男豊周)ことを、遺族すら知らなかったのである。
菊次郎は「父の銅像になぜあんな姿をさせたのか、私は相談を受けていませんから分かりません」と語っている。ただ、この格好ゆえ「上野の西郷さん」として広く親しまれることとなったという意味では、長州閥の思惑ははずれた。
除幕式には山県有朋首相、西郷従道侯爵、大山巌侯爵、樺山資紀伯爵、黒田清隆伯爵はじめ大臣や軍人など、西郷を討った面々が臨席した(東京朝日新聞)。
糸子は当時55歳。長男寅太郎の結婚(明治29年)後、鹿児島を引き払って牛込区(現新宿区)市谷加賀町の寅太郎邸で暮らしていた。除幕式の記事に隆盛家の遺族の名がないこと、長男菊次郎も嫡子寅太郎も参列していないこと、像の幕を開いたのは従道の三女(正妻清子の長女)桜子(のち岩倉具視の孫と結婚)であったことから、そもそも糸子は除幕式に列席していなかった、と考えるほうが妥当である。
「西郷隆盛の肖像画の顔は似ていない」もウソ
「教科書にも載っている西郷隆盛の肖像画は、本人とは似ていない」という話もよく使われる。
西郷が戦死した翌年(明治11年3月)、大久保利通と親しい得能良介(従道の義父)が人に託して香典として置いていった700円(現在の価値で数百万円)を、糸子は使用人の永田熊吉に東京まで返しに行かせた。お金を突き返されて困った得能(当時大蔵省印刷局長)が、肖像写真の撮影を頑なに拒否したため写真が1枚もない西郷の肖像画を贈ることを思い立ち(大久保は明治11年5月に暗殺されている)、印刷局のお雇い外国人(銅版画家)、イタリア人のキヨッソーネ(キヨソネ)に描かせたコンテ画が、有名な西郷隆盛肖像画である(原画は西郷家所蔵後、東京空襲で焼失)。
長男の西郷菊次郎(愛加那の子)がのちに語ったところによると、親族のなかで額は誰、目や鼻や口は誰というように顔をつぎはぎして西郷に似ている絵をすでにつくってあり、得能に頼まれて送ったその絵をもとにキヨッソーネが描いたものだという。「顔の上半分は弟の従道、下半分はいとこの大山巌をモデルにして描いた」という逸話が有名だが、菊次郎の説明には近い。
キヨッソーネが西郷と会ったことがないことを言い立てる人もいるが、西郷と面識のあった石川静正(大正2年)、石川の絵をもとにした佐藤均(大正2年)、西郷をよく知る床次正精(明治20年)、西郷の隣家に住んでいた肥後直熊(昭和2年=西郷没後50年)、西郷隆治(菊次郎の子)をモデルにした大牟礼南塘(昭和2年)らが描いた顔も、キヨッソーネ画によく似ている。また、多くの画家が西郷隆盛肖像画を描いているが、筆力においてなかなかキヨッソーネに及ばない。
そもそも、絵の注文主である得能や従道がキヨッソーネに、似ていないと非難されるような絵を描かせるはずもなく、実際、西郷没後まもない明治16年(1883)の肖像画完成時、親族知人らが太鼓判を押している。
西郷隆盛が生まれた年は1827年ではなく1828年
旧暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われ、その翌日の12月3日(1873年1月1日)を明治6年1月1日と定め、新暦(太陽暦)に改暦された。そのためそれ以前は、旧暦と新暦で月日に1カ月ほどのずれがある。
1827年は文政9年12月4日~文政10年11月14日で、11月15日以降(文政10年は12月29日まで)は1828年になる。
西郷が生まれた文政10年12月7日を西暦に直すと、1828年1月23日である。
「西郷隆盛誕生地」はじめ各地の観光名所の説明板で「1827年生まれ」としているものが多いのは、山川出版社の影響によるものか。高校の日本史教科書で6割を超える占有率を誇る山川出版社『詳説日本史』は凡例で、「明治5年までは日本暦と西暦とは1カ月前後の違いがあるが、年月はすべて日本暦をもとにし、西暦に換算しなかった。たとえば天正14年12月1日は、西暦では1587年1月9日であるが、1586(天正14)年12月とした」と断っており、ほかの会社の日本史教科書もそれにならっている。『山川日本史小辞典』でもこの不思議な編集方針に沿って、西郷の誕生日を「1827.12.7」としている。
吉川弘文館、岩波書店などの歴史辞典は、旧暦と西暦の年月日をそれぞれ正しく併記している。
「長男なのに菊次郎と名付けたのは正妻に遠慮したから」はウソ
万延2年1月2日(1861年2月11日)に愛加那が産んだ子の名を西郷(菊池源吾)が、長男であるにもかかわらず菊次郎とした理由には諸説あるが、西郷が以前、台湾で一子をもうけていたからという説もある。
西郷は奄美大島潜居の10年前、島津斉興・斉彬親子のお家騒動、お由羅騒動(由羅は斉興の側室で、斉彬の弟・久光の母)により、嘉永3年(1850)2月上旬(西郷22歳)から嘉永4年11月まで奄美に遠島になっていたという「嘉永の遠島説」がある。
その遠島中の嘉永4年(1851)4月、西郷は藩の密命を受けて台湾偵察に行き、南澳(ナンアオ)に上陸。その年の11月に西郷が薩摩に帰ったあと、当地の女性が西郷の子を産んだという(西郷は翌年、鹿児島で伊集院須賀と最初の結婚をする)。
いかにも作り話っぽいが、「のちに生まれるであろう嫡子に遠慮した」(5年後に寅太郎が生まれている)説よりはまだ説得力がある。明治35年(1902)、南澳のある宜蘭(イーラン)支庁長であった菊次郎(41歳)は妻の久子からその噂を聞いて、その男性(呉意51歳)を探し出し、台湾在任中「兄」として歓待した。
「坂本龍馬が西郷の家に泊まったとき雨漏りがした」はホント
「遠島」となっていた沖永良部島から帰還して約1年後の元治2年(慶応元年と同年)1月28日(1865年2月23日)、西郷(29歳)は薩摩藩家老小松帯刀(29歳)の媒酌で岩山糸子(21歳)と結婚。その8日後に藩命で福岡と京都に約2カ月出張し、帯刀とともに京都を発つとき坂本龍馬(29歳)を伴った。龍馬が同行したのは、薩摩藩に薩長同盟を説くためである。慶応元年4月25日(5月19日)、薩摩藩がイギリスから購入したばかりの輸送船胡蝶丸(船長は、糸子を紹介した有川矢九郎)で大坂を出帆し、5月1日(5月25日)鹿児島着。鹿児島滞在中、龍馬が西郷の上之園の借家に泊まったときに雨漏りがし、隣の部屋で糸子が西郷に、「お客様に申し訳ないから屋根を修理しましょう」と言うと西郷が、「今は国中の家が雨漏りをしている。うちだけ直すわけにはいかない」と叱るのを聞いて感心したという。
慶応2年1月20日(1866年3月6日)、龍馬立ち会いのもと西郷と木戸孝允(桂小五郎)の間で薩長同盟が結ばれる。締結場所は、近衛家が薩摩藩に貸した、御花畑と呼ばれていた近衛家別邸(京都市上京区。小松帯刀が住み、准藩邸として使われていた)。
その3日後に寺田屋で襲われて薩摩藩邸に匿われていた龍馬は、鹿児島に帰る西郷・帯刀らが乗る薩摩の藩船三邦丸にお龍(24歳)と同乗し、3月11日(4月25日)1年ぶりに鹿児島に来る。龍馬とお龍は、その10年前の帯刀(肝付尚五郎)と小松近の新婚旅行の行程を辿って霧島を旅行し(よって「日本初の新婚旅行」はウソ)、塩浸温泉に20日間滞在した。鹿児島に約3カ月間滞在後、二人は長崎へ向かったが、鹿児島では小松邸のほか西郷宅にも夫婦で泊まっている。「西郷吉之助の家内も吉之助も大いによい人なれば、この方に妻などは頼めば何も気づかいなし」(龍馬の、姉乙女への手紙)
「西郷隆盛は薩摩藩士の中で最下級の武士であった」は間違い
薩摩藩士は、鹿児島城下に住む城下士と、外城(地方)に住む郷士に分かれていた。西郷が生まれる2年前の文政8年(1826)の記録によると、城下士8,791人、郷士83,567人。城下士は、島津本家の下に、御一門(一門家、島津四家)、一所持、一所持格、寄合、寄合並、小番、新番、御小姓与という家格に分かれ、寄合並までが上級武士(たとえば小松帯刀は一所持)で、小番以下が下級武士。そして城下士の下に郷士、与力、足軽と続く。西郷家は御小姓与であったが、西郷の結婚当時、小松帯刀によって小番に昇格している。つまり、たしかに西郷は城下士の中では下級ながら、薩摩藩士の中では上位1割から2割に入っていた。
「愛加那が産んだ子を、西郷の正妻が引き取って育てた」は間違い
西郷の島妻愛加那(23歳)が奄美大島の龍郷で西郷(31歳)と結婚したのは安政6年11月8日(1859年12月1日)。万延2年1月2日(1861年2月11日)菊次郎、文久2年7月2日(1862年7月28日)娘の菊草が生まれる。結婚生活は約2年。
菊次郎が鹿児島に引き取られたのは8歳のとき(愛加那33歳頃)。
明治元年11月初め戊辰戦争から鹿児島に凱旋した西郷は、藩の参政(旧藩の家老)に就任。「大島へ行けなくなった」(島役人への書簡)西郷(41歳)が、武村の屋敷を購入した明治2年7月8日(1869年8月14日)前後に菊次郎(8歳)を鹿児島に呼んだ。同居していたのは西郷の正妻糸子(26歳)、その子寅太郎(3歳)(翌年午次郎が生まれる)、次弟吉二郎(前年に戦死)の後妻園子と先妻の2人の子、三弟従道(東京在住)の妻清子(2年後東京へ転居)、川口雪篷と数人の使用人たち(四弟小兵衛は京都)。
明治4年1月3日(1871年2月21日)菊次郎(10歳)は、明治政府に入ることとなった西郷に連れられて東京へ移り(西郷家にいたのは1年半)、その翌年から2年間米国に留学したあと、西郷が吉野村(現鹿児島市)寺山につくった吉野開墾社(全寮制の農業学校)の寮に入り(14歳)、明治10年(1877)の西南戦争に出征(16歳)。
菊草が鹿児島に引き取られたのは、菊次郎が米国留学から帰った明治7年(1874)か明治8年(1875)、12歳ごろ(愛加那40歳頃)。
(明治6年(1873)1月18日、西郷が愛加那に書状を送り、ぜひ母娘で本土に登ってくるように頼み、5月には、椎原国幹(西郷の叔父)が菊草を大島から連れて来ることになっていると、米国留学中の菊次郎に伝えているが、西郷が6月から数カ月間の病気治療に入ったために話が流れた。明治8年(1875)6月7日前後、元庄内藩士の石川静正と小華和業修が、(武屋敷の)西郷先生の女の御児が不快(病気)になったと書いている。よって菊草はこの間に鹿児島に来たことになる。)
菊草は明治9年(1876)秋ごろ(14歳)大山誠之助(27歳)と婚約するが、その数カ月後に西南戦争が勃発したため、西郷家とともに避難生活を送る。
菊次郎(16歳)は西南戦争で負傷して右足の膝下を切断し、長井村(宮崎県延岡市)で西郷の指示により降伏。宮崎で放免され、従僕の永田熊吉に背負われて、西郷家が避難していた西別府村(鹿児島市)に来る(9月初旬)。西郷家10人が暮らしていた小屋(野屋敷)近くの納屋で菊草(15歳)が看病したと伝わる。明治10年(1877)9月24日、西郷没(49歳)。明治11年4月(諸説あり)、一家は武村に戻る。
明治13年(1880)3月12日、菊草(17歳)は大山誠之助(30歳)と結婚して大山家に移る。菊草が西郷家で暮らしたのは西南戦争をはさむ5年間ほどであった。
菊次郎は菊草の結婚後、西郷家を出て奄美大島に帰る(年月日不詳)。菊次郎が西郷家で暮らしたのは、最初の1年余りを合わせても計4年間ほどであった。
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