イト、いと、以登、糸、絲子。天保14年7月17日(1843年8月12日)生まれ。父は上町(鹿児島市上町地区)の薩摩藩士岩山八郎太(直温)、母はエイ(栄、栄子)。5人きょうだいで上から(伊木)秀子、糸子、(肥後)千恵、岩山直方、(相良)竹子。
元治2年1月28日(1865年2月23日)、西郷(吉之助37歳)と結婚(21歳、海老原家に嫁いだことがあり再婚)。西郷は沖永良部島から帰還して1年間、軍の参謀として中央で活躍、結婚は鹿児島に帰ってわずか2週間後のことである。有川矢九郎が、妻のいとこのイトをいきなり連れて来て、西郷に了解させたと伝わる。媒酌人は家老小松帯刀(30歳)。家格は両家とも小番で同格。身長178㎝の西郷に対し、イトは150㎝前後。
加治屋町(当時は下加治屋町)にあった西郷の生家(259坪半)は借金返済のために西郷28歳のときに売却しており、甲突川対岸の武村上之園(鹿児島市上之園町)の、田の字型四間取の借家で暮らす。文久2年5月(1862年6月)に西郷の祖母が亡くなり、次弟吉二郎(31歳)一家4人、末弟小兵衛(17歳)、数人の使用人と同居。西郷は結婚式の8日後に福岡、京都に出張し、その後も1年のうち1カ月ほどしか鹿児島にはいなかったが、吉二郎夫妻が穏やかな優しい人柄で、10歳も年下の糸子を「姉さあ」と呼んで立てたという。
結婚から3カ月後の慶応元年5月1日(1865年5月25日)西郷が小松帯刀とともに鹿児島に帰って来る。そのとき京都から坂本龍馬を伴っており、有名な雨漏りのエピソードはこのときのもの(「逸話」参照)。
同年閏5月5日(1865年6月27日)甲突川の洪水によって家が浸水。10月16日(12月3日)、吉二郎の妻マスが幼い2人の子を遺して病死。その頃、西郷が沖永良部島に流されていたときの友人川口雪篷(46歳)が訪ねてきて、そのまま西郷家に居着く。
慶応2年3月11日(1866年4月25日)お龍を連れ再び薩摩に来た龍馬の、姉乙女への書簡、「西郷吉之助の家内(糸子)も吉之助(西郷)も大いによい人なれば、この方に妻(お龍)など頼めば何も気づかいなし」(龍馬30歳、お龍24歳、西郷38歳、糸子22歳)。
慶応2年7月12日(1866年8月21日)長男の寅太郎を産む。
慶応3年2月(1867年3月)吉二郎が仁礼園(園子25歳、糸子より2歳上)と再婚。
慶応4年1月3日(1868年1月25日)戊辰戦争が始まる。開戦直後の雪篷への書簡で西郷は糸子に向け、この戦いが終わったら官職を辞して隠居すると書いている。
慶応4年8月14日(1868年9月29日)吉二郎が新潟で戦死(36歳)。西郷は明治元年(慶応4年と同年)11月凱旋するが自宅には帰らず日当山温泉(霧島市隼人町)に滞在、明治2年2月藩の役職につき、5月箱館へ出帆、6月鹿児島に帰って来るがやはり自宅には滞在せず吉田温泉(宮崎県えびの市)で湯治、湯当たりして発熱下痢。
その6月(1869年7月)、西郷の三弟従道(26歳)と結婚した清子(薩摩藩士得能良介の娘)が一時期、西郷家に同居する(従道は東京居住)。
同年7月8日(1869年8月14日)、西郷が武村の屋敷(690坪)を購入。この頃西郷が奄美から菊次郎(愛加那の子、8歳)を引き取る(西郷41歳、糸子26歳、寅太郎3歳)。
明治3年3月18日(1870年4月18日)次男午次郎を産む。
同年11月7日(1870年12月28日)前庄内藩主の酒井忠篤(17歳)と旧庄内藩士76人が西郷に学ぶため鹿児島に来て、約4カ月滞在する。
明治4年1月3日(1871年2月21日)、勅命により明治政府に入ることとなった西郷が菊次郎(10歳)を連れて東京に赴任する。菊次郎が西郷家にいたのは1年半。西郷の東京での屋敷は日本橋小網町にあった。稲荷堀沿いにあった元姫路藩主酒井雅楽頭の中屋敷で、現在の住所では中央区日本橋の蛎殻町、小網町、人形町にまたがる。
同年10月(1871年11月)頃、清子が東京・永田町の従道の屋敷(1800坪)に移る。従道は明治6年(1873)目黒に敷地5万坪の別邸を購入。
明治5年6月22日(1872年7月27日)明治天皇(19歳)の西国巡幸に従い西郷(44歳)が1年半ぶりに帰郷し(ただし自宅には寄っていない)、7月2日(8月5日)鹿児島発。
明治5年(1872)11月、島津久光の西郷詰問14カ条発表を受け事態収拾のため西郷が帰郷。翌明治6年(1873)3月まで滞在し、「留守政府」を3カ月ほど留守にする(太陽暦採用により明治5年12月3日=明治6年1月1日となったため暦がひと月とんでいる)。
明治6年(1873)8月17日、父岩山直温が亡くなる。同年9月に岩山家の墓(鹿児島市坂元墓地)に建てられた献灯碑に刻まれているイトの銘は「西郷内以登」。
同年(1873)10月2日三男酉三を産む(寅太郎は寅年、午次郎は午年、酉三は酉年生まれ)。
同年(1873)11月10日、明治六年政変(遣韓使節論争)に敗れた西郷が鹿児島に帰って来る。同月帰郷した小兵衛(25歳)が大山家の長女(大山巌の姉)有馬国子の娘マス(松子)と結婚し武屋敷に同居。西郷は来客を避けるためか、武屋敷はほとんど留守にし、西別府(鹿児島市西別府町)、鰻温泉(指宿市)、白鳥温泉(えびの市)、日当山温泉、吉野開墾社(鹿児島市)、栗野岳温泉(湧水町)、有村温泉(桜島、大正噴火で埋没)などで農作業、狩猟、湯治などをして過ごす。いずれもお供は従僕数人と犬数頭。
明治7年(1874)か8年(1875)、西郷が菊草(愛加那の娘、12歳)を奄美から引き取る。
明治8年(1875)5月17日、庄内から菅実秀、石川静正ら8人が鹿児島に来訪、二十数日滞在し、西郷と数回、武屋敷で面会する。そのなかには、本間家7代当主・初代酒田町長となる本間光輝(20歳)もいた。
明治8年(1875)10月、家族らで日当山温泉※10に3週間逗留。西郷(47歳)糸子(32歳)寅太郎(9歳)午次郎(5歳)酉三(2歳)、美津(12歳)隆準(11歳)、母栄子(51歳)、弟直方の妻トク(19歳)と長彦(2歳)ほか。岩山トクの回想によると西郷は、子供たちと遊んだり草鞋作りをしたり煙草をすいながらぼんやり考え事をしたりしていたという。
明治9年(1876)の西郷の書簡に、「家内の者共(糸子たち)私宅にて蚕を飼い糸に拵え」とある。また武屋敷に西郷を訪ねて来た人が、質素な身なりの糸子を使用人と間違えて話しかけ、糸子もそのまま応対していたという逸話は多い。
明治9年(1876)5月、同居している小兵衛の妻松子が、幸吉を産む。
明治10年(1877)西南戦争がおこる。2月1日、大隅半島の根占で私学校徒の弾薬掠奪事件の急報を聞いた西郷は2月3日、武屋敷に帰着。2月17日朝、和服に袴姿で武屋敷を出て、私学校で陸軍大将の軍服に着替えたのち大雪の中を東京に向け出発した。2月27日、小兵衛が熊本で戦死(29歳)。
2月29日政府軍が鹿児島に上陸したため園子と松子が子供たちを連れ、約20㎞離れた永吉村(日置市吹上町永吉)坊野の坊野仁太・ヨシ夫妻の家(西郷家に奉公していた女中ヨシのために西郷が建ててやった家)に避難。5月4日糸子と雪篷も武屋敷を出て坊野に避難する。6月24日政府軍が鹿児島に火をつけ武屋敷が焼失。
8月、一家は坊野を逃れ西別府の拘地(自作地、武屋敷から直線で5㎞弱)に隠れ、小さな野屋敷(農事小屋)で暮らす。
9月6日、一家が西郷の鹿児島帰還を知る。同月初旬、西南戦争で負傷し右足の膝下を切断した菊次郎が、従僕の永田熊吉に背負われて西別府に来る。
9月14日、西郷が城山から脱出させた従僕池平仙太により、西郷が洞窟に籠もっていることを知り、新しい着物と帯を熊吉に届けさせる(城山までは10㎞ほど)。
9月24日朝、西郷が岩崎谷で自刃(49歳)。翌日、一家に西郷の死が知らされる。
しばらくして(一説には明治11年4月)一家は武村に戻る。川口雪篷が書いた明治10年10月20日の西郷家遺族取調書には、「家督西郷隆盛、城山にて戦死仕候」の遺族として「隆盛妻いと、隆盛長男西郷菊次郎、隆盛娘きく、隆盛嫡子西郷寅太郎、西郷午次郎、西郷酉三」と記されている。
明治11年(1878)3月、得能良介(従道の妻清子の父、当時大蔵省印刷局長)が人に託して香典として置いていった700円を、永田熊吉(西南戦争開戦前、目黒の西郷従道邸で庭師をしていたことがあった)に東京まで返しに行かせる。その際の糸子の文面、「夫は戦死し家屋道具類は皆焼失したゆえ、思し召しは重々かたじけなけれども、夫存命中に開墾したる土地もあり、差し向き暮らし方に差し支えることもなし。また後日にお願い申す筋もあらん」。
明治12年(1879)頃、従道の資金で武屋敷が再建される。同年2月から2年間、鹿児島師範学校教師の北條巻蔵※11が子供たちの家庭教師を務めている。
明治13年(1880)3月12日、菊草(17歳)が大山誠之助(大山巌の弟)と結婚し大山家に移る。菊草の結婚後、菊次郎は西郷家を出て奄美大島に帰り愛加那と暮らす。
明治16年(1883)西郷七回忌のあと明治天皇より、寅太郎ドイツ留学の内旨が下る。明治18年(1885)寅太郎(18歳)がアメリカ経由でドイツに留学。隆準(20歳)が同行。(森鷗外『独逸日記』に、明治20年12月10日ベルリンで「西郷の子を見る」とある。)
明治22年(1889)2月11日、正式に西郷の罪が赦され、賊名がとかれる。加治屋町の西郷の生家跡に「西郷隆盛君誕生之地の碑」※12が建てられる。
明治23年(1890)4月19日、三矢藤太郎が『南洲翁遺訓』※13頒布のため武屋敷を来訪。三矢の記録「武村南洲翁未亡人二、川口翁一」(糸子2冊、雪篷1冊購入の意)。
明治23年(1890)7月2日、川口雪篷(71歳)が亡くなる。
明治25年(1892)2月末、ドイツから帰国した寅太郎に会うために上京する。
明治29年(1896)5月、従道邸での寅太郎の結婚式に出席するために上京。そのまま鹿児島を引き払い、牛込区(新宿区)市谷加賀町の寅太郎宅に身を寄せる。
明治34年(1901)5月、鹿児島に帰郷(用件不詳)。亡夫隆盛の墓も西郷家代々の墓も鹿児島にあるにもかかわらず、亡くなるまで帰郷はこの1回のみであった。
明治35年(1902)6月3日、寅太郎が、西郷があれほど嫌っていた華族に列せられ、侯爵となる(山県有朋、大山巌、西郷従道は同日、最高位の大勲位菊花大綬章を受章)。
明治36年(1903)10月21日、三男の酉三が結核で死亡(30歳)。
明治42年(1909)、母栄子が亡くなる(85歳)。
大正8年(1919)1月1日、寅太郎(当時習志野俘虜収容所所長)がスペイン風邪により麻布市兵衛町の自宅で死去(52歳、墓碑「一月四日没」は誤り)。妻信子の浪費癖により以前から窮乏しており、寅太郎死後、信子は西郷家を出され屋敷は売却された。糸子はすぐ近くの午次郎※14宅へ移り、亡くなるまでの3年間を過ごした。午次郎の妻ヒデによると最後の養生のとき、「食事に何を差し上げましょうか」と聞くと必ず「芋粥でよか」と答え、唐芋ご飯を毎日、「幸せ」と言いながら食べたという。
大正11年(1922)6月3日没(79歳)。
青山霊園の西郷家区画中央に「西郷糸子墓」、右に「陸軍歩兵大佐侯爵西郷寅太郎墓」、左に「西郷酉三之墓」が並ぶ。 区画内には、早世した寅太郎の子どもたち(長男隆幸、次男隆輝、三女勝子、八男隆徳)、三男吉之助家、四男隆永家、西郷の大伯父の墓がある。
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