西郷マス


生年月日不詳。旧姓有馬。西郷の次弟吉二郎と結婚し、(たけ)上之園(うえのその)(鹿児島市上之園町)の西郷家に同居。文久32291863416日)長女みつ(美津)を産む。糸子が西郷家に入る2年前である。

(当時西郷(大島吉之助)は沖永良部島に遠島、西郷家は家財没収、吉二郎も謹慎(きんしん)処分を受けていたため極貧の生活だった。それでも吉二郎は、西郷に尽くしてくれている島役人土持(つちもち)政照(まさてる)15に丁寧な礼状を出すなど、兄のことを気遣っている。また、山から枝を切ってきて馬に積んで近所に売るなどして西郷が留守の間、西郷家を守ったといわれる。)

元治(げんじ)元年1864長男の勇袈裟(ゆうげさ)隆準(たかのり)を産む。

同年228186444日)、西郷が赦免(しゃめん)され奄美から鹿児島に帰って来る。

(西郷は足腰が立たず、翌日、這いずりながら斉彬の墓を詣でたという。そういう状態ながら西郷はすぐに島民の窮状を訴え、藩による砂糖専売制の転換を求める長文の上申書を書いたが、大久保利通がこれを握りつぶし、藩の上層部へは届かなかった。ただ西郷は当時、そのことを知らない。)

34186449日)、西郷が京都へ向け出帆(鹿児島にいたのは5日間)

元治21151865210日)西郷が10カ月ぶりに鹿児島に帰って来て、1281865223日)岩山糸子(イト)と結婚、糸子が上之園の西郷家に入る。西郷はその8日後の2633日)に鹿児島を発つ。

慶応元年(元治2年と同年)511865525日)西郷が小松帯刀、坂本龍馬らと鹿児島に帰って来る。

(うるう)551865627日)甲突川(こうつきがわ)氾濫(はんらん)して上之園の西郷家が床上浸水する。被害にあった西郷家を、小松帯刀がすぐに見舞いに訪れている。この水害のとき、(おび)える子供たちの気を(まぎ)らすために西郷が、流れて行く下駄に向かって「もうお帰りですか。お茶も差し上げませんで」と話しかけたという有名な逸話があるが、寅太郎はまだ生まれておらず(みつも2歳になったばかり)、この話の出どころと真偽は不明。

(同月15日(77日)浸水から10日後、西郷は鹿児島を出帆。しかし途中で大久保に至急の京都入りを促され下関での木戸孝允・坂本龍馬との会談をドタキャン、木戸を怒らせることとなる。)

1041121日)に京都から帰って来た西郷が小松帯刀とともに藩兵を率いて鹿児島を出発した翌日の10161865123日)30歳前後)

上記の水害で体調を崩し、幼い2人の子、2歳のみつ1歳の勇袈裟を遺しての病死であった。糸子が西郷家に入って約9カ月後のことである。 

墓は西郷家墓地(鹿児島市常盤(ときわ)にある。

西郷マスの墓
西郷マスの墓
左から吉二郎(供養墓)、先妻マス、後妻園子
左から吉二郎(供養墓)、先妻マス、後妻園子