大山菊子


菊草(きくそう)、菊(きく)、キク。文久2年7月2日(1862年7月28日)生まれ、明治42年(1909)9月6日没(47歳)。西郷隆盛と愛加那の娘(西郷の一人娘)。西郷菊次郎の妹。大山誠之助の妻。

奄美大島

安政5年11月16日(1858年12月20日)に月照とともに錦江湾(きんこうわん=鹿児島湾)で入水、一命をとりとめて奄美大島への「潜居」を命じられた西郷は、安政6年1月11日(1859年2月13日)に奄美大島に着き、島の代官所から禄をもらって龍郷(たつごう)の借家で暮らした。

安政6年11月8日(1859年12月1日)、西郷と愛加那が結婚。西郷31歳、愛加那23歳。

文久元年1月2日(1861年2月11日)、兄の菊次郎が生まれる。

文久2年1月14日(1862年2月12日)、藩からの召喚命令が届き、西郷が鹿児島に帰る。

文久2年7月2日(1862年7月28日)、西郷が鹿児島に帰還して半年後に菊草が生まれる。そのとき、再び島に流されて徳之島にいた西郷は8月19日(9月12日)、大島代官所の木場伝内(こば・でんない)からの手紙(7月17日付)で、菊草の誕生を知る。

文久2年8月26日(1862年9月19日)、愛加那が、菊次郎と生まれたばかりの菊草を連れて徳之島の西郷のもとへ行くが、西郷の沖永良部島への遠島命令が届き、親子は奄美大島に帰される。

元治(げんじ)元年2月23日(1864年3月30日)、西郷が沖永良部島から鹿児島に帰還する途中で、親子の住む龍郷に寄り、2月26日(4月2日)まで3泊4日を妻子と過ごす。このとき菊草は1歳8カ月。菊草が次に父親と会うのは、10年後のこととなる。

翌年の元治2年1月28日(1865年2月23日)、西郷が鹿児島で岩山糸子と結婚する。

同年3月21日(4月16日)付で、京都にいる西郷から、菊次郎と菊草に反物二反が送られてくる。

明治2年(1869)、兄の菊次郎(8歳)が鹿児島の西郷家に引き取られる。菊次郎は西郷家に1年余りいて、明治4年1月3日(1871年2月21日)西郷とともに東京へ行き(10歳)、明治5年2月28日(1872年4月5日)米国に留学(11歳)。明治7年(1874)7月頃に帰国し(13歳)、明治8年(1875)4月26日、鹿児島の吉野開墾社の寮に入る(14歳)。

明治6年(1873)1月18日、西郷が愛加那に書状を送る。菊次郎がアメリカに学問修行に行っていること、甥(西郷の妹・の子)の市来宗二(宗介)が同行していることを伝え、菊次郎の写真同封のうえ、年をとったせいか子供(菊草)のことを思い出すので、ぜひ母娘で本土に登ってくるように頼んでいる。

明治6年(1873)5月、西郷が叔父(母マサの弟)の椎原国幹(しいはら・くにもと)に、奄美に行って菊草を連れてくるよう依頼し、その旨をアメリカの菊次郎へも書簡で伝えているが、話が流れる。理由は不詳。西郷の病気療養が原因と思われる。

鹿児島

明治7年(1874)から8年(1875)頃、鹿児島・武(たけ)村の西郷家に引き取られる(12歳前後)。 

のちに「南洲翁遺訓」を刊行する菅実秀(すげ・さねひで)に随行して明治8年5月17日~6月12日、鹿児島に滞在した元庄内藩士・石川静正の紀行文に、西郷先生が一泊がてら畑に御案内くださることになっていて一同楽しみにしていたが「女の御児、菊次郎氏の妹が不快(病気)に罹られ、遂に果たさず止みぬ、誠に残念なり」とある。のちに松嶺町(現山形県酒田市松山)の町長となる小華和業修(こばなわ・ぎょうしゅう)の日記にも「六月七日、西郷先生を訪ふ、幸い逢ふ。此頃子供不快にて、度々おいでなれども逢はず失敬なりと申さる」とある。

明治9年(1876)10月、いとこの大山誠之助(大山巌の弟。大山家の三男)と婚約。菊草14歳。大山誠之助は明治2年に上京し、近衛隊、教導団(陸軍下士官養成機関)を経て陸軍少尉となっていたが、西郷下野の明治6年に辞官して帰郷していた。 

明治10年(1877)2月17日、西郷隆盛が鹿児島を出発し、西南の役が起こる(兄の菊次郎、婚約者の大山誠之助も出陣)。2月29日、政府軍の鹿児島上陸により、園子(西郷の亡き弟・吉二郎の妻)、松子(西郷の末弟・小兵衛の妻)らとともに、永吉村(現・日置市吹上町)坊野(ぼうの)へ避難する。8月、一家とともに西別府(にしのびゅう)村(現・鹿児島市)の西郷家の拘地(かけじ=自作地)へ移る。9月、宮崎で放免され永田熊吉に背負われて(熊本で負傷して右足の膝から下を切断したため)鹿児島に帰って来た兄の菊次郎とともに西別府村の納屋で暮らす。9月24日、父・西郷隆盛が岩崎谷で自刃(49歳)。翌日、西別府に西郷の死の知らせが届く。このとき菊草15歳。

終戦後しばらくして、武村に戻る(年月日は不詳)。明治10年10月20日の西郷家遺族取調書には、西郷隆盛の遺族として、「隆盛妻いと、隆盛長男西郷菊次郎、隆盛娘きく、隆盛嫡子西郷寅太郎、西郷午次郎、西郷酉三」と記されている。菊次郎が奄美の愛加那宛てに何回か手紙を書き、自分も菊も元気である、と伝えている。

明治12年(1879)、婚約者の大山誠之助が釈放され、鹿児島に帰って来る。西南の役に出陣していた大山誠之助は、長井村(宮崎県延岡市)で投降し、長崎(臨時裁判所)から宮城県に護送され、宮城県監獄署に収監されていた。

明治13年(1880)2月12日、大山誠之助と結婚。誠之助30歳、菊草17歳。加治屋町の大山家で暮らしたと思われるが、結婚後十余年の夫妻の記録が無く、結婚生活に関しては不詳。

米子、慶吉、綱則、冬子の4人の子を産むが、夫の借金や家庭内暴力により長く苦労する。

明治22年(1889)、大山家に同居していた大山家の長男・大山成美の未亡人で西郷隆盛の妹である安子(50歳頃)が、娘の雪子(14歳)を連れて東京に移る。

東京

明治26年(1893)頃、東京に居を移す

明治26年1月5日付で大山巌が西郷菊次郎宛てに、「実弟誠之助がまた例の不始末をおこして面倒をかけ実に面目ない。有馬様(有馬糺右衛門=大山巌の姉・国子の夫。西郷小兵衛の未亡人松子の父)、お安様(安子=大山巌の兄嫁。西郷の妹)に明朝集まってもらい相談する。西郷家は沼津(の別荘)に行っていて留守なので帰京次第相談するつもりだ」という内容の手紙を書いている。この後、誠之助の借財整理のため鹿児島の大山家を処分することに決し、誠之助一家は東京に移ったが、その前後に誠之助が出奔、一家は大山巌の援助を受けて暮らしたと思われるが、住居等は不明。菊草の長男の大山慶吉は、小学生のときに大山巌・捨松夫妻に引き取られて学習院に入学、明治40年(1907)陸軍士官学校を卒業して陸軍に入り、陸軍少佐になった(昭和17年2月27日没)。

明治35年(1902)、愛加那が死亡(65歳)。菊草は結局、12歳頃に奄美大島を離れて以来、一度も島には帰らず、母・愛加那とも会わぬままであった。

台湾に勤務していた兄の菊次郎は、電報を受け取り葬式に駆けつけている。なお菊次郎は、菊草が結婚したあと数年間、奄美大島に帰って龍郷で愛加那と暮らしている。

京都

明治40年(1907)頃、台湾勤務から戻ったあと明治37年(1904)から第2代京都市長を務めていた兄・菊次郎のもとへ身を寄せる(45歳頃)。

(以下、原田良子氏の調査による)菊次郎邸は聖護院境内、西門傍らの民家であった。当時の住所は京都市左京区聖護院町聖護院内京都市長宅。菊草の長男慶吉は陸軍勤務、長女米子はすでに嫁いでおり、次男綱則と次女の冬子が一緒であった。

しかし京都に移ってすぐの明治42年(1909)9月6日、菊草は47歳で亡くなった。京都・大日山(だいにちやま)墓地に葬られた。

なお出奔していた誠之助は菊草死後に大山家に現れ、大山巌邸の敷地内に家を建ててもらっていた長男慶吉宅に転がり込み、大正4年(1915)7月16日、65歳で没した。大山誠之助・菊子夫妻の墓は現在、東京都杉並区の大円寺にある。